本間宗一郎

私は元製造業とよく言ってますが、実は製造業と相続対策は親和性があります。

おそらくこんな考え方をしている人はまず私くらいだと思いますが。

製造業時代、父の会社は巨大な300トンプレスを筆頭に計11台のプレス機のほか、様々な特殊な加工機を保有していて、一時期20人近く社員やパートさんがいたものです。

が、取引先の倒産が相次ぎ、最終的には4人までに減り、私は東大阪市の「本間宗一郎」をめざして捲土重来を考えていたら、独立を促され今にいたるという感じです。

ところで、実は私は大学で経営工学(工業系MBAのようなもの)を学び、経営(経営学・簿記会計等)工学(保全、省力化、動作分析等)情報システム(SI・AI等)の単位を取ったものです。(大学1年の時だけはおそらく学年トップか2番)

この大学での勉強は、製造現場の改善や収益性の爆上げに役立ち、生産性を4倍に上げたり、人員を半数で製造できるようにして、取引先の倒産の不渡りを受けたときでも耐えられたという経緯もあります。

結局は製造業を離れましたが、そういった過去の経験が今に活きているというのは不思議なものです。

実は私がコンサルしている「相続対策」というものは、製造業でいえば「予防保全」「予知保全」という考え方とまったく同じ発想なんですね。

予防保全:トラブルが起きないよう予防するという考え方
予知保全:トラブルの予兆を察知して適切に対応するという考え方

なんだか一緒だと思いませんか?

製造業時代は、現場のトラブル、人間関係のトラブル、金銭トラブル、すべてに悩まされました。

が、過去に問題解決をしてきた多くの経験が今の仕事に役立っているので、人生って不思議だなあと思うばかりです。

一時期は人生に失敗したと思っていたものですが、今では過去の経験が全て活きていると思っています。

スティーブジョブズが、「将来を見据えて点と点を繋ぐことなどできない。過去を振り返ったときに初めて点と点が繋がる」というようなことを言ってましたが、ほんとうに実感です。

製造業のおかげで今がある。

今は相続対策業界の「本間宗一郎」をめざそうかと思っています(なんやそれー:神の声)

ホチキスの針

セミナーの資料を綴じる時に使っているホチキスの針に、実は思い入れの歴史があります。

実は、今使っているホチキスの針は、製造業時代(20年近く前)に購入したもの。

私の父(製造業時代の私のボス)は在庫が好きで、なんでも在庫する癖がありました。

経営が悪化する原因なんですが、何度諫言しても絶対やめなかった。

売上を上げても在庫で消えてしまうので、絶望的な思いを数え切れないほどしたものです。

ホチキスの針も同じように、いずれ使うだろうということで、山ほど購入していたのです。

10年前に製造業をたたんだとき、結局そういったいろいろなものが残っていて、今その製造業時代に購入をしたホチキスの針をちまちま使っているのです。

それも、日本相続でセミナー活動をはじめる前から……

そういった過去の遺物を目にするたび、借金に追われ、先が全く見えない状況で生きてきたことを思い出します。

簡単に言えば絶望的な状況を、何年も、何年も、何年も過ごしてきました。

絶望の中でいつも思っていたこと、それは「最悪の状況で最善の行動を」ということ。

いつも、いつも、いつも、そう思っていました。

何年も、何年も、何年も、そう思っていました。

だからいつもホチキスの針をみるたびに、いつもそのころを思い出します。

事業再生の経験

クライアントさんから、銀行をまとめようと思っているという相談が来た。

聞いてみると、メインに使っている銀行が近くじゃなく不便なので、なにかと便利なメガバンクにすべて資金移動を計画しているとのこと。

そのメインの銀行は、以前、アパートやマンションの建設資金を借りたときの銀行。

今、そのメインの銀行からまた融資をお願いする可能性があるのに、禁じ手を打とうとしている状況だった。
 
 
金融機関は、長い付き合いや信頼関係が大切で、特に融資の時は実績がものをいうことが多い。

事業再生でさんざん見てきたことで、雨が降ったら傘をとりあげる存在だけれど、それでも必要になる場面が出てくる。

そのためにも仲良くやっておくほうがいい。

そういうアドバイスをいろいろした。

危ないところだった。

そういったアドバイスもコンサルの力量のひとつになるので、事業再生の経験は貴重だとつくづく思う。

捨て身 背水の陣

まだ人生を振り返るのは早いけれど、今社会に出てからの生き方を振り返ると、捨て身・背水の陣・親や人のためで生きてきたような。

大学からサークルをさんざん作ったけど、みんなは結婚したれど、自分は彼女も作らなかったし。

きっと変人なんだろう。

中学1年生の時、バレーボール部のキャプテンをしていました

私は中学1年生の2学期だったかな、バレーボール部のキャプテンをすることになった。
練習は一回もしたことがないのに1年生でキャプテンという、珍しい存在だった。
というのも、2年生がいなくて3年生しかいなくて、1年生は私だけだったので、3年生が引退をしたら私しかいなくなってキャプテンを任されたという。
なかなか深い話ですね。

元卓球部です

私は中学時代、2年生の時に卓球部に入った。
そうすると、後輩である1年生より遅れて入ったので、後輩に負ける負ける。
はじめは先輩と敬ってくれていた後輩だったけれど、次第にさんざん馬鹿にされるようになり、やめてしまった。

ところで大学時代、体操の授業で卓球があった。
私は負けに負けて、1勝59敗という不名誉な記録を作ってしまった。
その一勝ができた相手は、2勝58敗という、そいつもまた不名誉な記録を持っていた。
でも、私が1勝した相手が2勝していたというのも不思議な話。

大阪から

昨日の士業・業者向けセミナー、なんと、大阪から飛行機でやってきて受講し、その後飛行機で帰るという参加者がいらっしゃった。

そんな人がたまにいらっしゃると、ほんとに気が引き締まる思い。

もう850回以上もセミナーをやってきているから、最近は予習もなくいきなり話をすることができるようになったけれど、
やっぱり聞いてくれる人がいるという貴重な体験をさせて頂くという思いは忘れてはいけないと思う。

また最近は目つきが真剣なセミナー参加者が増えてきた。

しかめっ面で受講される人もいるけれど、実は真剣に聞いていて心の中でうなっていたという人も。

これからも真摯にセミナーに取り組もうと思う。

40のとき

自分の人生が踏んだり蹴ったりで、人生失敗したと思っていた。

兄弟や親のために家を手伝ってきたのに、その家業からほうり出されるという結末。

俺の人生、ここまでかと、必死に働いてきたのは何だったのかと。

夢も希望も見えない状況が、家業の時代でも、家業から離れても、何も変わらず続いていた。

なんやねん、この人生、と親を恨んだりもした。

アホみたいな人生だと、くやしさに打ちのめされたことも。

でもそれがあったから、今がある。

それがなかったら、今はない。

おおらかな学生生活2

高校時代のことを思い出せば、いろいろありましたが、先生とは仲が良かったのはなによりでした。

関西のお笑い文化があるので、笑いにすると先生も許してくれるというのもプラスになりました。

実は先生もたまに授業中頼ってくることも。

頼るってどんなことかといえば、けだるい昼からの授業で、みんな眠けと戦う状況になったとき、先生が急に私を指名して質問をしてくることがありました。

けだるい状況での授業中、いきなり急に
「ところで本間!」
と呼ばれてびっくりして
「はい!」と言ったら、
「お前将来何になりたいんや?」と聞かれたので、すかさず
「天皇陛下」
と言ったら、シーンとしているクラスがさらにシーンとしてしまいました。

先生もすこし戸惑った顔をしていたけれど、
「そうか」
とひと言。

そしてそのまま授業が続いていきました。

その時クラス中、微妙な雰囲気が流れ、笑っていいのかおもしろくないのか、クラスのみんな困ってました。

その後は授業も活気が戻ったので、まあ良しとするところですね。

おおらかな学生生活

今の世の中、ほんと世知辛くなってしまいました。

自転車も規制が強化されたり、変な権利を主張する人も増えたり、わかるけれど、昔のおおらかさがある時代のほうが良いのではと思うことも。

今も進学校のWebを管理しているけど、その進学校の先生も、先生は体罰をできないと生徒がなめてくることも増えたと言ってました。

昔は親が「先生、うちの子がいらんことしたらどついたってください」と言っていたもんですが。

ちなみに私は高校でいらんこと、悪意や害のないアホなことをちょくちょくしましたが、けっこう先生とは仲が良かったので、どつかれることは一切無かったです。

クラスコンパが学校にばれたときも、もみ消されたりとか。

授業中寝ていることも良くあったんですが、そういうときに限って先生は「本間、次の文章を読め」と言って当ててくるんですね。

ほかの生徒だったら、焦ってまわりの人に「どこ?どこ??」と聞いて、先生がそれを見て「お前、授業中寝るな!」と一喝がきます。

なので寝ぼけた私が立ち上がると、「本間あいつ怒られよるぞ!」とクラス中に緊張が走ります。

でも、私はまわりに聞くなんて野暮なことはせず、すぐに適当に本をめくって、全く関係のないページを堂々と読み始めます。

先生もクラスのみんなも「へ?」という顔をしますが、気にすることなく、そのまま読み進めると、先生から「本間、お前どこ読んでんねん。それ先月やったところや」と突っ込みが入り、そこで笑いを取るんですね。

そして先生は呆れた顔をして怒ることもなく、「もうええ、ここのページのここからや」と教えてくれます。

大阪は笑いを取れれば許される文化があるので、おおらかな学生生活を過ごせたもんです。